映画「えんとつ町のプペル」を観たのは昨年末の事だった。
作者の西野亮博氏の事はお笑い芸人で絵本作家やオンラインサロン、クラウドファンディングで成功している人という認識があるくらいで、プペルの絵本も読んだ事は無かったが、どんな映画なのか興味があったので公開早々映画館に足を運んだ。
感想としては、自分にとっては正直あまり面白い物ではなかった。
その理由についてこれまで言語化できずに何かずっとモヤモヤしたものを感じていたが、この度、自分の中で整理がついたので文章にしてみたいと思う。
なぜ町の人は星の存在を「否定」するのか?
自分が一番違和感を感じてストーリーに共感できなかったのはおそらくこれが原因だ。
「星の存在を証明する事」はこの物語の一番重要なテーマでもあるので、ここに違和感を感じてしまったのは致命的と言える。
プペルのお話は西野氏自身が新しい事に挑戦した際に周りから否定された経験がベースになっているが、西野氏が経験した「否定」と、町の人の「否定」には、実は大きな隔たりがある。
西野氏が経験したのは「実現可能性についての否定」
西野氏が受けてきた否定の言葉は、例えば絵本作家を目指した際であれば、
「絵をまともに描いた事もないのに絵本作家になれるわけがない」
「そんな甘い考えでプロになんかなれる訳がない」
といった、「絵本作家になる」という明確な目標設定に対して、「スキル不足」や「思慮不足」を指摘する「実現可能性についての否定」であったはずだ。
これは例えば、ヒカキンを見てユーチューバーを目指すと言い始めた子供に対して、親が「そんな甘いもんじゃない」とか、「お前なんかになれっこない」といった否定の言葉を浴びせるようなケースで、特に親の立場であれば、強い否定の気持ちが現れるのは理解できる。
プペルで描かれていたのは「存在可能性についての否定」
では、町の人は何を否定していたかと言えば、ルビッチやブルーノが訴えていた「星の存在」に対してであって、「誰も見たことが無いもの」や、「存在が証明されていないもの」を否定する意見はあっても良いが、果たしてそこまで頑なになるものだろうか?
この場合の「否定」は、例えば子供がオカルト番組を観てUFOの存在を信じ込んだりするケースで、果たしてその場合に親は頭ごなしに否定するだろうか?
子供が幼心に感じた夢やロマンを否定するのは唯の大人げない行為で、むしろ応援してあげる方が自然だ。
つまり、西野氏が受けた「否定」と映画の中の「否定」は全く構造が違う。
そのことに作者本人が気が付いていないまま、自身が経験した周囲からの強い否定の言葉をそのまま町の人のセリフに投影した結果、「致命的な違和感」を生んでしまっている。これがストーリーに共感できない決定的な理由だと考える。
プペルのお話がもし「実現可能性」をベースにしたものだったら?
例えば、「世界一高い木のてっぺんにしか咲かない伝説の花を摘みに行く」というストーリーだったらどうだろうか?
臆病者で弱虫のルビッチが、突然そんな事を言い出したら親や町の人が「そんなの出来っこない」と、頭ごなしに否定したとしても違和感はないはずだ。
西野氏が訴えたかった、「否定的な言葉を気にせず、行動し続ければ夢は叶う」という
この映画のテーマには十分共感できるだけに、うまく表現できていないのは凄く残念に思う。