昨今注目されているポリコレ論争。
ポリティカルコレクトネス(通称”ポリコレ”)の定義については、改めて説明するのもメンドクサイので、もし知らない人がいたらググってみて欲しい。
さて、この記事のタイトルでポリコレは一時的なブームに過ぎないと断言してしまってるので、ここは、何らかの根拠を示さなければならないだろう。
結論から言うと、こうだ。
「ポリコレは人類の進化の否定である」
意外性のある結論を示す事で、読者の興味を惹こうとする浅はかな試みだが、これだけだと何言ってるのかさっぱり分からないと思うので、詳しく説明していこうと思う。
まず、ポリコレ推進派の発言として最近よく耳にするのは、映画やゲームの登場人物に対して、
「主人公が美人過ぎる。これは性的搾取だ!」といった意見だ。
なんだかルッキズムへの批判とごっちゃになってる感もあるが、映画の主人公が美人すぎると不快に感じる層が一定数いることは事実らしい。
こうした層への忖度の結果か、確かに最近の映画に登場するヒロイン役は、「美形」ではなく、「個性的」と表現した方が的確なケースが多くなっている様に思う。
ここで一旦立ち止まって考えよう。
そもそも、これまでは何故「美形」が持てはやされてきたのか。
「美形」である事が、なぜこれほど私たちの目を惹き付けるのか。
美の定義について掘り下げてみると、
女性の美しさの定義は様々あると思うが、例えば目のサイズは、形もあるだろうが、基本的には大きい方がより美しいと評価される。
顔の面積に対して、目が占める割合が大きい事で年齢的にも若く見えやすく、種の保存の欲求から、若い異性をより好む傾向は否定できない。
また、目が大きいことが広い視野の確保に繋がり、外敵の早期発見能力に優れるという評価もあるだろう。
次に美人の基準として挙げられるのは、美しく白い肌。
色の白いは七難隠すという言葉もあるように、肌は白い方がより好まれる傾向にあることは否定できないだろう。
これも、肌つやの良さは健康な個体の証明であり、病気や体調不良によって損なわれる事からも、白く健康的な肌を持つ女性の方が美しいという評価を得やすいと言える。
そして、美の基準をもう一つ上げるなら、女性らしいプロポーションは、男性を惹き付ける重要なファクターのひとつだろう。
豊満なバストや安産型の骨盤は、女性的なフォルムの象徴であると同時に出産・育児能力の顕示でもある。
こうした事実から言えるのは、美しいものを求める心は、生存本能から発せられた人間にとっての根源的な欲求であるということだ。
我々人類は、こうした遺伝子に組み込まれた行動パターンに基づいた無意識の選択を実行することで、生物の淘汰圧に抗って生き残り、生物的進化を遂げてきたのだ。
ポリコレによる美の否定は、つまり、人間の生存本能の否定、そして進化の否定をも意味する事につながりかねない。
生物が進化を止めれば、最早絶滅の道しか残されない。
今は一時のブームとして、ポリコレ思想が持てはやされているが、それはあくまで一過性のものであって、人類の新しい成長の一歩ではありえない。